午後二時。ランチの時間帯が過ぎてフロアの混雑が一段落したので休憩に入ると、ロッカールームには先客がいた。バジルだ。 先程手渡した昼食をひと足先に頬張っている。 「あ、山本さん! これすっごく美味しいです!」 「だろ?」 深皿に盛られているのはドライトマトの混ぜご飯だ。ボウルにオリーブオイルと醤油、ご飯を入れて軽く混ぜた後、ざく切りにしたドライトマトと細かく切ったソーセージを加えてさらに混ぜ合わせ、仕上げにラー油をかけて完成という簡単な一品だが、なかなか好評なのである。 「前の店で出してたまかない料理なんだ」 「へぇ。でも、お店で出してもいいぐらいだと思いますよ。さすがだなぁ」 嬉しそうに口をモグモグさせながら、バジルはんまい、んまいと喜んでくれた。その横で山本も少し遅い昼食を終え、アイスコーヒーでひと息つく。 「他の奴らはもう休憩したのか?」 「紅葉さんたちは終わりましたけど、店長はまだですね」 「そっか」 言われてみれば確かに昼食は人数分作ったが、まだ彼には手渡していなかった。これからの時間帯は昼ほど混雑しないだろうが、もともと食事よりドリンクがメインの店だ。ラテアートなんかが目当ての客は正午より、三時前後から夕方の方が多いのではないだろうか。 よけいなお世話だと承知していても、なんとなくようすが気になって早めに戻ってみると、ちょうど店内に新しい客が入ってきたところだった。しかも、めずらしいことに学生ではない大人の男性客だ。 ところがその男性はフロアに足を踏み入れるなり、一組の若い女性グループに近づいていって「チャオ」といきなり声をかけた。 (何者だ?) 「ようこそ、美しいお嬢さん方! このサントゥアーリオで安らぎのひと時をお過ごし頂いて光栄至極」 男はまるで舞台に立っている役者のように、胸に手を当てて大仰な仕草でお辞儀をして見せた。当然テーブルの客は固まっているが、なぜか周囲からはクスクスと笑いが洩れている。不審者に驚き、戸惑っている気配ではない。 (てことは、ひょっとして……) 「よろしければ、このあと俺と一緒に――――」 「よろしいわけないだろ」 不審な男に最後まで言わせず、冷たい一言で遮ったのは店長の獄寺だった。男の姿を目にした彼は、ただちに接客していたテーブルから離れてツカツカと男に歩み寄ると、後ろからぐいっと男の耳朶を引っぱったのである。 「……おいおい、痛ぇよ隼人」 「どうかお静かに」 獄寺は男の耳を摘んだまま、失礼しましたと客に極上の笑みで一礼すると、くるりと回れ右してまっすぐこちらに向かって歩いてきた。当然男も引っぱられて、後からよろよろとついてくる。 「痛い痛い、耳がちぎれる」 「ハイハイ」 「隼人ぉ〜」 「いいから、こっち」 彼ら二人がバックヤードにたどり着く頃には、店内のクスクス笑いは大きくなっていた。なぜかキャーキャー言って喜んでいる客もいる。 「ったく、裏から入れって何度言ったら分かるんだよ!」 「いいじゃねーか、べつに。大事なお客様に挨拶してただけだろ?」 「挨拶じゃなくてナンパだろ! あんたこの店のオーナーって自覚あんのか?」 (やっぱりこのオッサンがオーナーなのか) 厨房横の廊下で言い合いを始めた二人の会話に、山本はやや肩を落とした。 「もちろんだ! だから店にいる可愛い子チャンは全部俺のものなんだよ!」 「まさに全女性の敵だな」 おそらく普段から今のようなやり取りを幾度となく繰り返しているのだろう。だから常連客は知っていたのだ。この男の正体と、直後の展開を。 (日本語しゃべってるけど、やっぱりイタリア人だろうな。年齢は三十代後半か四十過ぎぐらいか?) チノパンに半袖のカラーシャツ、襟はノーネクタイ。靴もウイングチップだから比較的ラフな服装ではあるが、身につけているのはおそらくどれもイタリアのブランド物だろう。少し長めで癖のある髪、皮肉そうに端が歪んだ厚めの唇。獄寺と並んだ時の身長差を見ると、百八十ぐらいはあるはずだ。 好みの問題もあるが、口さえ開かなければ女の目にはダンディなタイプに映るかもしれない。 (親戚でも友人でもないけど、子供の頃から身近な存在……か) 「ひでぇ言われようだな。なぁバジル、こいつ冷てぇと思わねーか?」 「えっ……いえ、拙者はべつに」 心配そうに覗いていたら、いきなり話を振られて泡を食ったバジルが変な言葉遣いになっている。そういえば彼は忍者マニアだ。 「自業自得だろ」 「昔はシャマルぅ〜、シャマルぅ〜って俺の後ばーっかりついてきて、可愛かったのになぁ」 「んな言い方してねーよ」 「ちっとは可愛げ残しとけよ。じゃないと客が逃げちまうぞ」 中年オヤジは笑いながら獄寺の小さな尻を両手でギュッとつかんで、揉んだ。途端に「ぎゃあ!」と悲鳴が上がる。 「死ね、このエロオヤジ!」 しかし振り払おうとした腕は残念ながら間一髪で避けられてしまい、空振った。 「おっと、残念!」 シャマルという名の中年男が余裕の笑みをチラつかせながら視線を投げかけてきたのは、真っ赤になって憤怒の表情を浮かべている獄寺ではなく、厨房から成り行きを見守っていた山本の方だ。 「よっ、沢田の親戚ってのはおまえか?」 「そうです」 「ふーん…………」 濃いブルネットの瞳がじっと何かを探るように山本を捉えている。かと思えば、すぐに態度をコロリと変えて、軽い調子でヒラヒラと手を振った。 「まぁ、適当にヨロシクな」 「適当じゃ困るんだよ」 獄寺の厳しいツッコミもシャマルの耳には入っていないようで、口笛を吹きながら廊下の奥へと歩いていく。 「あんな奴がオーナーですまねーな。今見たとおりだから、何かあってもできる限り相手にしないで無視してくれ」 「……はぁ」 なんとも反応に困るコメントを残して、獄寺も事務所にこもってしまった。取り残された山本はまだ手をつけられていない昼食用の皿を眺めて、ため息をつくしかない。 「って言われてもなぁ、気になっちまうんだから仕方ないよな」 ふと思い立って棚から取り出したビスコッティをまかない用のまぜご飯の皿と一緒にトレイに載せると、山本は奥にある事務所へと向かった。ナッツとドライフルーツがたっぷり入ったビスコッティは、焼き菓子ならなんとかなるかと試しに作ってみたものだ。オーナーと店長二人に試作品を食べてもらうという名目なら、打ち合わせの邪魔をしても構わないだろう。ついでに、まだ昼食を取っていない獄寺に食事を渡すことができる。そう思ったのだが。 (ん?) ドアをノックする前に、山本の動きは止まってしまった。 「……ぁ…」 どういうわけか扉が閉まりきっておらず、ほんの少し開いた隙間から微かに洩れ聞こえてくる声が、これまたどういうわけか事務所などから聞こえてくるはずのない類の艶を含んでいたからだ。 (んんん?) わざとらしさがどうにもトラップ臭い気がしたが、誘惑に抗いきれず隙間からそっと中を覗いてみると、獄寺がシャマルというおっさんにセクハラされていた。それもさっきのような尻揉み程度ではなく、正面から抱きかかえられて思いきり下肢を弄られている。 「やっ……よせ、って」 獄寺は必死に身を捩って抗っているように見えたが、細い腰をがっちりホールドされているようで、振り払えずに触られまくっていた。 腹立たしくも羨ましい光景だ。 「……んなの、洒落にならな……」 「まったくなぁ。ついこの間まで乳臭いガキんちょだったくせに、いつの間にかこんなやらしい腰つきになっちまいやがって」 男の大きな手のひらが腿の内側を撫で、長い指が双丘の狭間を布越しになぞっていく。 (おいおい) さすがにまずいような気がして止めに入ろうかと一歩踏み出しかけたが、何しろいい歳の大人同士だし、おまけに男同士だ。本気で抵抗しようと思えばできるはずなので、下手をすればただのお邪魔虫になりかねない。 たとえば、二人が恋人同士だったとしたら――――― そう考えた途端、みぞおちのあたりがカッと熱くなった。 「このっ……ぁ」 一方で、逡巡している間に聞こえてきた小さな喘ぎに下肢の中心を直撃されて、出ようとしていた足が鈍る。 (その声はヤバイだろ) 獄寺はドアに背中を向けているので、その表情を窺うことはできないが、代わりにシャマルの遠慮ないセクハラぶりはつぶさに見ることができた。あの男は後ろだけでなく、前茎も制服のズボンの上から揉みしだいているようだ。 「……うぅ…」 「にしても、おまえ結構感じやすいなァ。どこぞの悪い虫に手ぇ出されてねーだろうな?」 「ばっ……バカか、てめ…………も、離せよ」 「とか言っちゃって、ホントは気持ちいいんだろ? 我慢できないなら可愛くおねだりしてみな。今日は特別にイカせてやるぞ」 「……ざ、け…な」 (ダメだ! やっぱり我慢できねぇ) ドアの把手をつかむ。 ところが次の瞬間、 「誰が言うか!」 もう堪えられないといった感じの声が聞こえてきて、勢いよく振り上げられた獄寺の拳がシャマルの顎を捉えた。 「んがっ!」 (お、アッパー入った) 「ふざけてんじゃねぇ、この変態セクハラ野郎ッ!」 そして、もう一発。 「ぐぉっ」 (右ストレート、決まったな) 華奢な外見のわりに、なかなかいい腕っ節だ。 「今度やったらマジで警察に突き出してやるからな」 (ふーん……) 憤然としたようすで雇い主を見下ろして、冷たく言い捨てているところを見ると、照れ隠しではないようだ。どうやらああいった行為を当然のようにする仲ではないらしい。少なくとも獄寺の方はそう思っていないということだろう。 いろんな意味でホッと胸を撫で下ろしていると、勢いよくドアが開いて、飛び出してきた獄寺とぶつかりそうになった。 「わっ!」 「……っぶね」 咄嗟に避けようとして身体を捻った拍子に、トレイの上の器がガチャンと音を立てた。 「……あ」 「…………」 正面から目が合い、廊下に気まずい空気と沈黙が流れる。 獄寺の顔がみるみるうちに朱に染まっていった。 (おー、すげぇ真っ赤だ) こんな表情もするんだなぁと少し驚いて、しげしげと眺めていたのが悪かったのだろうか。彼はキッと眦を吊り上げ、何も言わずに速足で立ち去ろうとした。 (あ、逃げた) しかしすぐに回れ右して戻ってくると、山本の襟首をぐっとつかんで一言。 「おまえは何も見てないし、聞いてないよな?」 「…………あ、ああ」 必死の形相で言われたものだから、思わず頷いてしまったのだが。 「いいか、誰にも話すなよ!」 (んな睨まれてもまだ顔真っ赤だし、全然おっかなくないんだけど。むしろ、むちゃくちゃ可愛いし) そうして釘だけ刺して、また急ぎ足でフロアに戻ろうとしているようだったので、肩を怒らせている後ろ姿に向かって山本は声をかけた。 「店長、制服! 直さねぇと」 「……っ!」 悔しそうな顔で振り向いた獄寺が慌ててロッカールームに駆け込んでいく。 (……可愛すぎ) 十年前に会った時も見た目とのギャップが面白くて、しかもやたらと可愛かったものだから、偶然会って一緒に遊んでいるうちに目が離せなくなった。今はすっかり落ち着いた雰囲気で、クールな美形になったと思っていたのだが、反応の可愛らしさは相変わらずなようで思わず山本は顔がニヤケてしまった。 (可愛い上に、あんなに色っぽくなってるなんて反則だろ) 本人に自覚がない分、危険な気がする。 (だからセクハラなんかされちまうんじゃねーかな) いつの間にか後ろに人が立っている気配がしたので、ゆっくり振り返ると、険のある眼差しでこちらを見つめているブルネットの瞳とぶつかった。 「悪い虫発見。……覗き見はよくねぇな。もうガキじゃねーんだから、ああいう時は気ィ利かせろよ」 (よく言うよ。わざと見せつけたくせに) 扉が開いていたのが、その証拠だ。 どっちが悪い虫なんだと呆れながら中年男の目を見返す。 「見てないで通報した方がよかったですか?」 すると、シャマルは不満そうに眉を片方ピンと跳ね上げた。 「無粋だねぇ」 ついでに彼はトレイの上にあるビスコッティを摘んで、一口齧ると、六十点だなとつぶやいた。 「どう見ても合意じゃなさそうだったんで」 「嫌よ嫌よも好きのうち、って言葉知ってるか?」 イタリア人のくせに、そういう言い回しをよく知っているところも胡散臭い。 「本当に嫌がってる場合もありますから、自信過剰はよくないっすよ」 「テレてるだけだよ。なんせ俺はあいつの特別だからな」 (……それを俺に言いたかったわけか) 分かったら今度からは邪魔するなよと告げて、顎をさすりながら裏口から出て行くシャマルを黙って見送ると、山本は厨房に戻っていった。 めずらしくムカムカしている胸の内側に怒りと嫉妬を抱えて。 ※ ※ ※
いつも以上にギリギリになってしまってすみませんでした!
今回はパラレルですが基本的にはいつもと変わりないです。 上記のようにちょっとシャマルにまでセクハラされちゃってますが、 山本にされちゃうことに比べたらどーってことないので(笑)← 遅れた分ラブシーンは結構頑張って入ってますのでよろしくお願いします! 2011.8.12 初出し A5 40P コピー誌 @300− |