橋の欄干にもたれて暮れていく空の色を眺めながら、空っぽの肺に空気を吸い込む。 川面を渡ってくる風には、微かに潮の匂いが混ざっている。ここから海へと繋がっているからだろう。日本とイギリスでは空気も町の匂いも違うけれど、潮の匂いは同じだなと思った。 手にした荷物は小さなボストンバッグが一つ。たいした物は入っていない。 (……まずは今夜の寝床をどうにかしねーとなぁ) 達海はバッグを肩にかけ直した。 不思議なほど、涙もため息も出なかった。 出来ることなら、あの町に戻りたいけれど。あたたかい場所に別れを告げて、飛び出してきたのは自分自身だ。 (後藤……) あいつ、今頃何してっかな。 脳裏に浮かんできた懐かしい顔に、思わず口の端が綻ぶ。そのとき、足元に軽く何かが当たった。 「ん?」 サッカーボールだ。ふと視線を横に向けると、子供が五人、戸惑ったようすでじっとそのボールを見つめている。 「……よお、これおまえらのか?」 日本語で尋ねても分かるはずがない。しかし指を差しただけで意図は通じたらしく、一番手前にいた子供がこくんと頷いた。 「ほらよ」 ボールを拾って返してやると未来のフットボーラーたちは競い合うようにそれを蹴りながら、橋の向こう側へと駆けていった。きっと空き地でミニゲームでもやるのだろう。 遠ざかる小さなシルエットを見送っているうちに、リハビリを終えたはずの膝にじわりと鈍い痛みが走る。 (やっぱまだ当分帰れそうにねーなぁ) フットボールの神様にこの借りを返してもらわなきゃならない。道のりは遠そうだ。 (つーわけだからさ……悪ぃな、後藤) 達海は元来た道とは逆の方向にゆっくりと歩き始めた。 ※ ※ ※ 静かな呼気にゆっくりと上下する胸。達海はもうすっかり夢の中だ。 薄く開いた唇に引き寄せられていく視線を無理やり剥がして立ち上がった後藤は、昔よりもだいぶ細くなってしまった身体の下敷きになっているシーツを引っぱり出して捲ると、上からかけてやった。相変わらず世話の焼ける奴だ。 少しクセのある髪が枕の上でハネている。きっと明日の朝にはそのまま寝癖になって残っているだろう。 直してやろうか。 手を伸ばしかけて、直前で思い留まった。頭に浮かんだ理由が触れるための言い訳のように思えたからだ。 少しでも触れてしまったら、もしも欲望に火がついてしまったら我慢できるかどうか自信はない。 (……俺だけが変わっていないんだよな) 後藤は自嘲の笑みを浮かべた。 誰もが帰ってきた達海猛を見て「変わっていない」と口にする。自分も最初はそう思った。あいつは少しも変わっていない、と。 イングランドでカントクやってます。 雑な文字で、たった一言そう記されたハガキに誘われてイングランド中を捜し回り、田舎町で偶然再会した夜―――――上機嫌ではしゃぎながら選手たちに肩車されて、勝利という美酒に酔っている姿を目にしたとき、その表情があまりにもキラキラしていて昔と同じだったから、後藤は思わず十年という月日を失念しそうなった。瞬きする間に時間が巻き戻されたような錯覚に陥って、全身が固まった。肚の底から湧き上がってくる歓喜と興奮に鳥肌が立った。 「いた……達海が、いた。…………やっと見つけた!」 また会えたのだ。 「これで俺たちもETUもあの頃に戻れる……きっと」 しかし、その喜びが間違いであることはプレミアとの試合を見てすぐに気がついた。言動の端々に達海らしさが変わらず残っているのは確かだが、彼はちゃんと自力で前に進んでいたからだ。自分で自分の居場所を見つけ、昔とは違う方法で周囲の期待に応えていた。それを確認したことで監督としての期待はますます高まったが、同時に己の愚かさにも気づかされてしまった。 (バカだよな) 別れを決めて、己の道をひたすらに突き進んだからこそ今の達海がある。 なのに後藤だけが十年前、突然電話を切れられて呆然と立ち尽くしたあの場所に、いつまでも心を残して立ち止まっていていいはずがない。そんなことをして、また足を引っぱるわけにはいかないのだ。 だいいち十年も前にきっぱり振られているのだから、期待する方がどうかしている。 「達海……」 (おまえの邪魔はしない。絶対に) 湧き上がる想いに蓋をして指先を引っ込め、ぐっと拳を握る。 「…………おやすみ」 静かに踵を返すと、部屋の電気を消してドアを閉めた。 壁一枚隔てた隣の部屋で過ごす夜は、少し長いかもしれない。だが気を紛らわせる方法ならある。 「仕事するか」 それから数時間、後藤は持ってきた書類やモバイルと格闘して過ごした。
初めて書いたゴトタツです。ということは、これが私のゴトタツ・スタンダードになる わけですが…………ロマンチックに見せかけておいて後藤さんが壊れてます。(^^ゞ 申し訳ありません!おまけにバッチリR18作品なので、苦手な方はご注意ください。 |